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Beauty Source キレイの魔法

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クリスティーヌ1880『指輪』

クリスティーヌ1880『指輪』

ついに守護天使にお会いすることができたのに。
部屋に戻ってすぐに眠り、起き出したいまも
夢か現かわからないままに、混乱したもともと頭痛もちの
重い額を持て余していると、すべてが幻だったように思えて。

いえ、むしろ、そう思いたい心が、あの場所で
見たもの聞いたもの感じたものを何もかも拭い去り、
もとの真っ白な、ひたすらにお父さまの遣わしてくださった天使に
教えを乞うことしか知らない私に還ろうと仕向けているのでしょうか。

でも、それはもうできないのです。
私はあの場所で、あの音楽を聴き、天使の手を取り、翼が落ちるところを見てしまったから。
そしてなにより、私の手の中にはまるで邂逅の動かぬ証拠を示すように、
古びた指輪が握られているから。

「ゆっくり休んで」
ラウルは優しく笑ってくれる。
まだ何も知らないその微笑を、幻想など信じない心を
曇らせてしまっていいのかしら?

「あのね、ラウル」私はそっと手を開く。
「お聞きになったことがあるかしら、オペラゴーストのことを?」
「兄さんの代わりにオペラ座に通うようになってから、何度も耳にしたよ。
それどころか、君が昨夜、僕との約束を破っていなくなっている間に、
何通かの手紙が届いてね。僕もその一つを持っている」

「何と書かれていて?」
「そうだね…君を二度と返さないとか何とか…ただの悪戯だよ、
現実に、いま君はここにいるのだから」
「あのね、ラウル。私が夕べ何処にいたか…お話しても…」

「マダム・ジリーからは、初主演の緊張がとけて倒れてしまったから、
寄宿舎に戻らずルイーズのところで休んでいたと聞いているけれど?」
「マダム・ガルニエのところにいたと、そう先生はおっしゃったの…」
「薬草療法の心得があるんだってね、カルロッタの喉の薬も、
ときどき調合してあげているとか…ルイーズも歌っていたと聞くけれど、
ハーブのことは何処で習ったんだろうね」

「あの方が…」
「あの方?」
「…ラウル、私がオペラゴーストのところにいたと言ったら、お怒りになる?」

「怒るよ、もちろん。だって君は僕と食事するよりも、ファントムを選んだってことだからね」
「ふざけて話をしているのじゃないの、ラウル」
開いた手の平に私はラウルの手を載せる。

「これは?」
「あの方に…私の先生から、お預かりしたのだと思うの。昨夜、あの方の棲んでいる処に…」
「連れて行かれたのか」

「もしかしたら夢かもしれないと思っていたの。
長くて暗い通路を通って、水路を渡って、不思議なものがたくさん集められた場所に着いて…
あの方はオルガンに向かって美しい曲を作っていて…
夢か現か、境目が何処だかわからないままに気づいたら自分の部屋にいて…
でも、私の手はその指輪を握り締めていて…」
ラウルは私の覚束ない話を優しく最後まで聞いてくれました。

「クリスティーヌ、もし良かったら、これを預からせてもらってもいいかな?
珍しい石のようだから詳しく調べれば、君の先生が誰かも分かるかもしれない」
「はい…どうぞ」

指輪は…確かあの人形の傍に置かれていたものでした。
あまりにも…最初は鏡を見ているのかと思ったほど、私にそっくりな花嫁人形。
持っていることが怖いような気もして、私はラウルの言葉に従ったのです。

それからあまりにも色々な出来事が起こり、すっかり忘れてしまった頃に、
ラウルは指輪を返してくれました。

「指輪の来歴が少し分かったから、兄さんから聞いた範囲で伝えておくよ。
そのブルーダイヤはね、兄さんが親しかったさる外国の王族の持ち物だったそうだ。
ファントムが何故、その指輪を持っていたのかは分からないけれど、
兄さんによると、その王族は君のお父さんと縁があった方で…と言ったら、
君は誰のことか分かるのかな?」
「いいえ。父はそんなことは何も」

「そうなんだね、僕も兄さんからはっきり誰とは聞いていないんだ。
とにかく、その指輪は本来、君のお父さんに遺されたもので…ということは、
その王族も既に亡くなっているらしいんだけれど…
だから、君のお父さんもこの世を去った今、指輪を受け継ぐ人は…」

ラウルはそっと、ブルーダイヤをはめてくれようとしましたけれど
少し古風な意匠は、私の指には小さ過ぎるようでした。
いったいどんな華奢な手の方を飾っていたのでしょう?

再び指輪を私から預かったラウルは数週間後、
私の手に合うようにすっかりデザインしなおして、
エンゲージリングとしてプレゼントしてくれたのでした。

「中央のブルーダイヤは君のお父さんに遺されたもので、
周囲と台座の宝石は僕の母が形見にしてくれたものだよ」
今度はすんなりと手におさまった指輪を、
部屋で一人になった途端、私は外していたのです。

首の金鎖に付け直したブルーダイヤを、新年の仮面舞踏会のため
オペラ座にやってきたラウルは怪訝そうに見つめていましたけれど
あの方の手を取ってしまった指には、相応しくないような気がして。

その直後、久しぶりに現れたあの方は、目の醒めるような紅い衣裳をまとい、
立ち居振る舞いで、その場の全ての人たちを威圧し、宣戦布告のごとく
新作のスコアを叩きつけ…それから私の胸にあるものを
ことごとく奪い去っていったのは、皆さまご承知の通りです。
2009.12.10


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